茶ノ木を日本に持ち帰ったのは禅僧栄西
日本で茶の習慣や喫茶を広めたのは原木を中国から持ち帰った栄西というお坊さんでした。茶木の種類は現代で言う中国産のクローナル種(インド産に比べやや小振りな葉)であっただろうと想像されています。栄西禅師の面影は、京都祇園に程近い「建仁寺」で拝観することができますが、訪れた時境内で立礼席が設けられている日なら尚、喫茶日和です。
大名茶と町衆の茶
茶の湯の祖と言えば「千利休」絡んだ武家と言えば豊臣秀吉ということは誰もが知るところでしょうか。茶の湯というと炭のはぜる音と釜の湯の音しかない茶室、精神を研ぎ澄ました静謐のなかで何を食べているのかわからないような緊張感を思い浮かべる人も多いかもしれません。
全国の人が間違ってると思うのですが、千利休は京都市民ではなく大阪人です。実家は堺市の船問屋、商家の三男という、極めて愉快な道楽息子でした。朝顔ひとつを客人に見せるために生け垣の朝顔をひとつ残して全部打ち捨ててしまうような茶人です。無駄な装飾を嫌う(あくまで千利休の自分目線、打ち捨てられた朝顔は堪ったものではない)人物でした。「一期一会」「一客一碗」「一客一亭」ととにかく唯一無二っぽいものが好みの茶人だったようです。
言ったら悪いですが「簡素な無駄のない世界」を構築するのに「あり得ない金と労力」を費やすという金持ちならではの自重ぎみの慎ましさが茶道の根元ですが私は大好き大好物です。
なぜ戦国大名達は挙って自藩に茶道頭を置いたのか?
尾張藩の織田有楽の有楽流、千利休と並ぶ三大茶人言われる小堀遠州の遠州流、古田織部の織部流、伊達政宗の仙台藩茶道頭は石州流清水派など大名にはお抱えの茶人がいます。
城下町といわれるところには茶道や煎茶道などの茶の湯文化が発達していており、公家の茶に対して武将の好む茶道、「大名茶」が流行しました。しかし実際必要だったのは喫茶ではなく談合の場持ちのための目的だったようです。茶道が文化技芸として昇華するのは後年になってからなのですが、城下の町衆や庶民にはひとときの楽しみとして生活に定着した感があります。
町衆の茶の湯というと賭博目的の「闘茶」という茶の銘柄や産地を当てる聞茶が流行していました。互いに金品や高価な工芸品などを持参し聞茶で勝敗を競うのです。味を判りやすくするため濃茶で数杯振る舞われることから勝負師のほうも必死です。梅干しや香の物は持参してもよく、亭主(館主)から呈される茶懐石もジビエや海鮮などが皿盛りというかなり豪勢な膳だったという記録が残されています。しかし勝てば一生ものの褒美が出る、という大勝負に大枚を賭ける博打が流行るにつれ喧嘩や乱闘、窃盗が絶えず表向きは姿を消した文化となりました。
戦後の茶道は、お遍路さんで言う御接待の奉仕のような側面がありました。御接待とは四国のお遍路さん(巡礼者)に地元民がお茶やお茶菓子を出してもてなすことです。戦後の食べることが難しかった頃「お茶の先生のところに行けば甘いお菓子が食べられる」という理由で興味もないのに稽古に人が集まったそうです。「私は子供の頃土手の草を刈って食べた」という教授の先生の回顧録が印象的でした。
とにかく安全なところで温かいものが飲食できる充足、これが何物にも代えがたい茶道一碗なのだと気がつきます。日常をせわしく急ぐ人にとってみれば、腹が減っていても気がつかないような何かの理想に毎瞬追いまわされている自分にようやく歩止まりをみるのです。
深刻な閉塞感に悩まされていた頃を経て、ほんとに道草食ってたとなればいい。半目勝てばよいだけの人生すべては道程なり、そんな明言に出会えるのもまた茶道の愉しみです。